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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のラクビーを支える人びと
第75回
ラグビーとサッカーから学んだ「スポーツの力」

大東 和美

 高校からラグビーを始め、大学4年時にはキャプテンとして大学選手権、日本選手権で優勝するなど、伝統の早稲田大学ラグビー部の輝かしい時代に活躍した大東和美さん。社会人時代には日本代表にも選ばれ、現役引退後の1976年には、母校の早大ラグビー部の監督に就任し、大学選手権で優勝に導きました。

また、サッカーのJリーグの4代目チェアマンを務めるなど、日本スポーツ界に大きく貢献。現在は日本スポーツ振興センターの理事長を務めている大東さんに、早大ラグビーの強さの理由や、プロチーム経営のコツ、来年のラグビーW杯への期待などをうかがいました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/大東和美・フォート・キシモト

大西時代から継承される強さの理由

早大、日本代表等を通し指導を受けた大西鐡之祐氏(右)と。大東氏(中)

早大、日本代表等を通し指導を受けた大西鐡之祐氏(右)と。
大東氏(中)

―― 大東さんは、早稲田大学ラグビー部ご出身です。4年生の時にはキャプテンを務め大学選手権で優勝。さらに日本選手権では新日鐵釜石を破って日本一に上り詰めました。あの時代の早大というのは、なぜ、あれほど強くあり続けられたのでしょうか。

もちろん学生が頑張って練習していたということもありますが、それに加えて、やはり指導者の力も大きかったと思います。1950~60年代に早大の黄金時代を築いた大西鐵之祐先生をはじめ、私が4年生の時(1970年)は日比野弘先生が監督就任1年目の時でしたが、両先生とも後に日本代表の監督も務めた早大の大先輩。そのほかの監督も、皆さん熱心に、かつ丁寧に指導してくださったことで、学生が力を発揮することができたのだと思います。

―― 大東さんは4年間、4人の監督から指導を受けられています。1年生の時が藤島勇一さん(後に共同通信社福岡支社次長)、2年生の時には白井善三郎さん(後に日本ラグビーフットボール協会専務理事)、3年生の時が木本建治さん(3度早大の監督に就任。2度目の1988年には16年ぶり4度目の日本選手権優勝に導く)、そして最後は日比野さんでした。毎年監督が替わったにもかかわらず、常に大学選手権で優勝争いをする強豪チームであり続けることができていた要因はどこにあったのでしょうか。

日本代表OB戦で。大西氏(前列左から4人目)、金野氏(前列左から3人目)等と。大東氏(中列中央)

日本代表OB戦で。大西氏(前列左から4人目)、金野氏(前列左から3人目)等と。大東氏(中列中央)

当時の早大では監督が替わることは、そう珍しいことではありませんでしたが、強さが継承できたのは、やはり大西先生時代からの早大のラグビースタイルを軸とすることにブレがなかったからだと思います。大西先生は日本代表の監督としてもご活躍された方ですが、その時代のチーム、選手に合った戦い方を常に考えておられた方でした。代表的なのは「接近・展開・連続」という持久力と瞬発力を駆使した戦術理論や、守備に専念するのが通常だったフルバックを攻撃に参加させる戦略のサインプレー「カンペイ」を生み出されました。そうしたチームにあった戦略を立てることで、チームの強さを引き出していたのではないでしょうか。

―― とはいえ、相手もさることながら、自分たちもまた、毎年のように変わる戦略を理解していかなければいけなかったのは大変だったと思います。

そうですね。ですから、最も重要だったのはコミュニケーションを図ることでした。お互いをわかり合っていたからこそ、監督や戦略が変わっても、チームは一つになることができていたのだと思います。私の時代の早大は、決して個々の能力が他校を上回っていたわけではありませんでした。ただし、一人一人のメンタルは強かったですね。ですから結束力があった。それもまた、強さを生み出していたのだと思います。

大東和美氏(インタビュー風景)

大東和美氏(インタビュー風景)

―― 他の伝統校と比べると、早大では高校まで無名だった選手がレギュラーになることが少なくないという印象があります。

本人の努力はもちろんあると思いますが、「考えるラグビー」が選手たちを成長させるのだと思います。指導者の言うことをただ聞くだけではなくて、練習の時から選手に考えさせることが往々にしてありました。

―― 大西先生が考案されたと言われるサインプレー「カンペイ」は、大西先生のご著書によれば、実は合宿時に選手たちが考え出したものを元にしたものだったとか。

はい、そうなんです。夏の菅平(長野県菅平高原)での合宿の時に、大西先生が学生と一緒に考案したフルバック(最後尾に位置し攻守にわたって高い能力が求められるポジション)のライン参加の戦術で、「菅平」で生まれたことから「カンペイ」と呼ばれています。そういったことは珍しくありませんでした。練習メニューも委員に選ばれた選手たちが中心になって決めていました。

―― そんな伝統ある早大ラグビー部のキャプテンは責任も重大だったと思います。任命された時はどんなお気持ちでしたか?

「青天の霹靂」という感じでした。何人か候補はいたと思いますが、僕は2年生の時から試合に出させてもらっていたこともあって、「もしかしたら」という気持ちがあったんです。ですから、ある程度の心の準備はできていました。

大学選手権決勝で日本体育大学を破り優勝(中央でボールを持っている選手、1971年)

大学選手権決勝で日本体育大学を破り優勝(中央でボールを持っている選手、1971年)

―― プレッシャーはありませんでしたか?

常にリーダーとしての責任の重さというのは感じていました。逆に言えば、それを感じなければ、キャプテンは務まらないと思いますしね。ただ、時折、ふと孤独を感じることがありました。それこそ試合では、監督は指示を出すことができませんから、すべてキャプテンが判断をします。自分一人で決めなければいけない孤独さは、やはりありましたね。

「民主的なチーム」早大への憧れ

―― そもそも大東さんがラグビーを始めたきっかけは何だったのでしょうか。

中学生の時までは野球少年だったのですが、報徳学園高等学校(兵庫)入学後に、楕円状の独特のボール形状と、15人という大人数で戦うというところに魅かれてラグビー部に入りました。

―― 報徳学園と言えば、野球の名門でもありますが、野球部に入ろうとは思わなかったのでしょうか。

まぁ、中学生の時にそれほど強いチームにいたわけではありませんでしたから、そこまで野球でという気持ちはありませんでした。そんな時にラグビーと出合って、「あ、面白そうだな」と。

“聖地・花園ラグビー場”で開催される全国高校選手権大会

“聖地・花園ラグビー場”で開催される全国高校選手権大会

―― 実際にやってみていかがでしたか?

やはり見ているだけと、やるのとでは、まったく違いました(笑)。タックルだ、スクラムだと、野球とは違ってコンタクトプレーの連続でしたからね。ただ、不思議なことにやめたいと思うことはありませんでした。よく日本では「ノーサイド」という言葉が使われますが、チームメイトはもちろん、対戦相手も含めて自然と"ラグビー仲間"になるんですね。それが何よりの魅力でした。

―― 関西ご出身の大東さんが関西の雄、同志社大学ではなく、関東の早大に進学を決めたのはなぜだったのでしょうか。

早大に行った先輩から「早稲田は民主的なチーム」という話を聞いていたことが一番大きかったと思います。もちろん練習は厳しいけれど、理不尽な縦社会ではなく民主的だと。また、文武両道というところにも魅かれて、2年生の時にはもう早大に行くことをほぼ決めていました。

早稲田大学ラグビー部監督時代、大学日本一に導く(中列右から4人目、1976年)

早稲田大学ラグビー部監督時代、大学日本一に導く(中列右から4人目、1976年)

―― 実際に入ってみていかがでしたか?

練習は想像以上に厳しかったですね。特に毎年恒例の菅平高原(長野)で行われる夏合宿では、徹底的に走って、徹底的にスクラムを組むんです。もう練習するか、寝るかの生活でした。ただ、それも全部自分たちで決めてやっていたことでしたから、決してやらされていたというわけではなかったんです。そういう意味でも、聞いていた通り本当に民主的なチームでした。寮では食事の支度や清掃はすべて学生がやっていたのですが、分け隔てなく上級生もやっていましたからね。その時代においては、非常に珍しかったと思いますよ。

―― それは大西先生の訓えが継承されていたからだったのでしょうか。

いえ、おそらく大西先生がというよりも、早大の伝統的な気質だったと思います。

―― 伝統と言えば、「試合前儀式」は有名ですが、改めてどんなものなのかを教えてください。

試合前日のミーティングで、監督が一人一人名前を呼んで、塩で清めたジャージを手渡していくんです。夜寝る時には、そのジャージを枕元に置いて寝ます。それを公式戦では毎試合行うのが早大の習わしで、結束力につながっているんです。

雪辱を果たしての学生王座奪還

日本選手権決勝で社会人の雄・新日鐡釜石を破り日本一に輝く(左から3人目、1971年)

日本選手権決勝で社会人の雄・新日鐡釜石を破り日本一に輝く
(左から3人目、1971年)

―― 大東さんは最初はポジションがフッカー(スクラムの中心。スクラムをコントロールすると同時にボールを足でかきだすポジション)でしたが、4年生の時はプロップ(スクラムの端に位置し、相手フォワードと激しく組み合う支柱的ポジション)として活躍されました。ポジション変更は、監督の日比野さんのご指示だったのでしょうか。

日比野さんご自身はバックス(後ろの7人のことを指し、攻撃の起点となるスタンドオフなどボールを持って走るポジション)出身でしたから、フォワード(前の8人のことを指し、スクラムを組むポジション)のことは詳しくなかったと思いますが、監督も含めてチームの話し合いの中で、私はプロップでということになりました。

―― いきなり不慣れなポジションになって、しかもキャプテンでしたから、苦労されたのでは?

実は高校時代にはプロップを務めたこともありましたから、そのへんは大丈夫でした。現在ではスクラムもタックルのルールも当時とはずいぶん変わってきていて、プロップの役割も今とは少し違いますが、私たちの頃はスクラムは距離を置いた状態で組みましたので、いかに早く相手と組むかということが駆け引きとしてありました。

大学選手権で優勝し、主将として優勝カップを受け取る(1971年)

大学選手権で優勝し、主将として優勝カップを受け取る(1971年)

―― 早大は特に低い姿勢からスクラムを組むのが有名です。

そうです。たとえ押すことができなくても、決して相手に押されるなというのが重視されているんです。

―― そういった意味で「力負けしないフォワード」がいたことが、早大の強さを引き出していましたよね。

そうですね。そこから展開ラグビーをしていくというのが、私たちのスタイルとしてありました。

―― 早大時代の一番の思い出は何ですか?

4年生の時に日本一になれたことも嬉しかったのですが、悔しさを晴らした大学選手権も印象に残っていますね。というのも、1、2年生の時には連覇をしていながら、3年生の時に決勝で日本体育大学に負けて準優勝に終わったんです。その日体大に決勝で勝って、学生日本一として終えられたのは本当に嬉しかった。大学選手権で優勝した時にしか歌うことができない『荒ぶる』を歌えて喜びもひとしおでした。もう一つ忘れられないのは、私たちが卒業した翌年に一つ下のチームも日本選手権で三菱自動車工業京都を破って日本一になってくれたことでした。それまで大学で日本一の座をつかんでいたのは、同志社大学と早大だけだったのですが、連覇は史上初の快挙でした。それが本当に嬉しかったですね。

社会人で生きた"大人へのプロセス"

住金(現・新日鐵住金)時代、マラソン大会に参加

住金(現・新日鐵住金)時代、
マラソン大会に参加

―― 大学で数々の輝かしい成績を残したにもかかわらず、大学卒業後はラグビー部のない住友金属工業(現・新日鐵住金)に就職されました。

いくつかの企業から声をかけていただいていたのですが、地元の関西に戻ることを考えていたことと、「モノづくりに関わりたい」という思いがありまして、それで住金に決めました。実は、私が勤務した工場にはラグビー部があったんです。もちろん決して強くはありませんでした。関西でもCランクくらいのチームでしたから。でも、そこでラグビーを続けていました。

―― ラグビーが強い企業からもお声がかかっていたのでは?

はい、確かにそうでした。ただ、4年生でラグビー部を引退した時には達成感があって、「もうラグビーはいいかな」と思っていたんです。大学チャンピオンにも日本一にもなれましたから「やり残したことはないな」と、いわゆる燃え尽き症候群の状態になっていたんでしょうね。それで普通のサラリーマンの道を歩もうと思って、住金に就職しました。

―― ところが、社会人2年目には日本代表に選出されて、ヨーロッパ遠征にも参加されました。そして1976年度には母校、早大監督として大学日本一にもなられています。

大学を卒業する時には「もういい」と思っていたのですが、やはり離れてみると寂しいという気持ちがありました。ですから代表に選ばれた時には嬉しかったですし、選ばれたからにはしっかりとやろうと思いました。ただ環境が環境だっただけに、とても大変でしたね。練習時間を確保したりすることも難しかったですし、チームでは強い相手と組むこともできなかったですから。

日本代表海外遠征時の試合(日本選手左端)

日本代表海外遠征時の試合(日本選手左端)

―― 仕事もこなさなければいけない中で、ラグビーとの両立は大変だったのではないでしょうか。

そうですね。ただ、やはり学生時代にラグビーで培ったものがありましたから、精神的に弱音を吐くということはなかったですね。「絶対に負けない」という気持ちもありましたし、「受け持った仕事はきちんとやる」ということも当たり前のようにありましたので、大変ではありましたが、苦労したという感じはありませんでした。

―― ラグビーで学んだことが社会人としても生かされたわけですね。

はい、それは非常にあったと思います。ラグビーというスポーツは、"子どもから大人"へと成長させてくれる要素が含まれていると思うんですね。結局、心身ともに子どものままではラグビーは成立しません。自分のことだけでなく周りを見て、お互いを理解して信頼し、自分の役割をきっちりと果たす。そういうふうに大人へと成長していく過程で必要なものを得ながら強くなっていくのがラグビー。もちろん、ラグビーに限ったことではなく、本来スポーツとはそういうものなのだと思います。

ラグビー人気復活へ期待したいラグビーW杯

大東和美氏(インタビュー風景)

大東和美氏(インタビュー風景)

―― さて、いよいよアジア初開催のラグビーW杯まで、あと1年となりました。

ラグビーW杯は、オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯と並ぶ「世界3大スポーツ大会」と言えます。そのラグビーW杯が自国で開催されるというのは、もしかしたら人生に一度きりのことかもしれません。そう考えると、日本のラグビー関係者やラグビーファンは、大きな期待感があると思いますし、私もドキドキワクワクしています。今大会は全国12会場で行われますので、ぜひ一人でも多くの人にラグビーの魅力を感じていただき、どの会場も満員になることを願っています。

―― 大東さんは、日本以外にはどのチームのラグビーに特に興味がありますか?

現役時代にニュージーランド遠征でジュニアチームと対戦していますし、またラグビーW杯では現在連覇をしていますので、やはりオールブラックス(ニュージーランド代表の愛称)ですね。私たち日本代表が遠征で行った時には、ニュージーランドでラグビーは国技ですから、もちろんスタジアムは満員で、大歓声の中で試合をしたのですが、歓声やブーイング、拍手のタイミングなど、「あぁ、やっぱりラグビーをよく知っているなぁ」と感じました。来年のラグビーW杯開催を機に、日本もそうなるといいですよね。そして、そんな最高の環境の中で子どもたちがラグビーの魅力に触れて「やってみたいな」という気持ちになってくれたら嬉しいなと思います。

―― 大東さんが現役時代だった頃はラグビーは人気スポーツの一つでした。しかし、現在は人気が低迷して久しいわけですが、復活の兆しを見せたのが2015年のラグビーW杯での日本代表の躍進でした。決勝トーナメント進出には至りませんでしたが、それでもグループリーグで優勝候補の筆頭だった南アフリカを撃破したあの試合は、ラグビーの魅力が詰まっていました。

やはりラグビーというスポーツは、フィジカルの強さが不可欠。その点、当時日本代表監督を務めたエディ・ジョーンズ(現・イングランド代表監督)は徹底的にフィジカルを鍛え上げました。トレーニングの内容だけでなく、例えば栄養面においても、しっかりとマネジメントしていた。やはり今は科学の時代。単に練習だけやっていても勝てる時代ではありません。さまざまな角度から科学的根拠によるアプローチが必要です。それを積み上げてきた結果が、あの2015年の南ア戦だったのだと思います。私は、現地ブライトン(イギリス)で観戦していましたが、あの試合は本当に感動しました。何よりもスタジアムの観客が、勝った日本を称えてくれていたことが嬉しかったですね。ああいう姿を来年のラグビーW杯でも見られたら、きっとラグビー人気も高まるはずです。

震災時に痛感した「スポーツの力」

Jリーグチェアマン時代

Jリーグチェアマン時代

―― 大東さんは、2005年にサッカー・Jリーグの鹿島アントラーズの専務取締役を経て代表取締役社長を務めました。また、2010年には4代目のJリーグチェアマンに抜擢されました。

当然、最初はサッカーのことはまったくわかりませんでしたし、サッカー関係者との人脈もない中でのスタートでしたから、鹿島アントラーズへの辞令が出た時には、正直驚きました。ただ、未知の世界だったからこそ「面白そうだな」とは思いました。

―― 実際にはいかがでしたか?

プロチームの経営というのは、自分自身がアマチュアしか経験してこなかったこともあって、予想以上に難しかったですね。収入は主に入場料、スポンサー料、あとはグッズ等の商品の売り上げの3つなわけですが、入場料と商品の売り上げについてはお客さんの集まり次第。ですから、なかなか見通しが立たないんです。たとえ2万人動員した試合があっても、果たして次の試合にも同じくらい入るかというと、必ずしもそうではありません。ですから、年間計画が立てるのが非常に難しかったです。その中で予算を立てながら選手の獲得にも動かなければいけません。赤字覚悟で優秀な選手を獲得するのも一つですが、優秀な選手がいるからといってチームが勝てるわけではない。ケガをする危険性もあるし、チームにフィットしない可能性もありますからね。

―― 大東さんは何を基準にして選手を獲得していたのでしょうか。

私がというよりも、すでに鹿島アントラーズには高卒の若い選手を取ってきて育成するということがチームの方針としてありましたので、スカウト陣は高校生の発掘に注力していました。現在日本代表として活躍している柴崎岳(現・スペインのプリメーラ・ディビシオン・ヘタフォCF所属)は、高校2年の時にはもう卒業後はアントラーズに所属するという契約をしていたんです。

鹿島アントラーズ時代、サポーターに胴上げされる

鹿島アントラーズ時代、サポーターに胴上げされる

―― 当時からアントラーズは強豪チームであり続けています。その秘訣は何でしょうか?

スポーツは勝敗だけではないと言われることもありますが、やはりプロの世界は、勝たなければいけないと思いますね。「勝ち癖」ではないけれど、勝つことによってチームに自信や勢いが生まれるんです。これがあるのとないのとでは、まったく違います。

―― 大東さんが社長時代には、リーグで3連覇を果たしました。

「オマエは持っているな」とよく言われましたが、あれは嬉しかったですね。でも、あそこまでいくには大変だったんですよ。社長就任1年目のシーズン開幕直後はまったく結果が出なくて、サポーターから呼び出しがありましてね。「社長、どうなってるんだ?新米だからダメなんだ!」と、もうボロクソに言われましたよ(笑)。ところが、シーズン終盤、最後の9試合をすべて勝ったんです。しかも最終戦を迎えた時には首位は浦和レッズで、2位がアントラーズだったのですが、浦和が横浜FCに0-1で負けて、アントラーズは清水エスパルスに3-0で勝ったんです。それで大逆転での優勝を成し遂げました。そこから3連覇してくれました。

鹿島アントラーズ時代、サポーターに囲まれて(前列左から4人目)

鹿島アントラーズ時代、サポーターに囲まれて
(前列左から4人目)

―― その手腕が買われて、2010年にはJリーグのチェアマンに就任されました。

チェアマンとして私が最も印象に残っているのは、2011年。就任して半年後の3月11日に東日本大震災が起きました。あの日は金曜日で、翌日にはリーグ戦第2節目の試合が予定されていましたので、すでにアウェーのチームは移動していたわけです。当時私は東京の事務所にいたのですが、地震がおさまった後に、まずは全チームの状況を確認させました。そうしたところ、仙台、鹿島、水戸のスタジアムは使用できる状況ではないことがわかったんです。もちろん、東北を中心にパニック状態に陥っていましたから、その日のうちに全試合中止を決めました。
また、日本代表は3月25日(モンテネグロ戦)、29日(ニュージーランド戦)にはキリンチャレンジカップが予定されていました。しかし、それも2試合ともに中止にしたのですが、代わりに提案したのがチャリティマッチ。ただ、当初は「そんなサッカーどころではないのでは」という意見もあったんです。私もいろいろと考えたのですが、やはりやろうと決めました。サッカー界ができることは、やはりサッカーだろうと思ったんです。そこで3月29日、日本代表とJリーグ選抜とのチャリティマッチを大阪の長居スタジアムで行ったのですが、なんと4万人以上ものお客さんが来てくれたんです。これは嬉しかったですね。試合自体も盛り上がりましたし、試合後にはラモス瑠偉などOBも大勢駆けつけてくれまして募金活動をしたのですが、長蛇の列を目にした時は、スポーツの力を感じずにはいられませんでした。

―― あの時は日本中でスポーツの力が見直され、改めて「スポーツっていいな」と感じた人も多かったと思います。しかし、最近は残念ながら組織幹部によるパワーハラスメントや指導者からの暴力など、スポーツ界の不祥事が相次いでいます。

いろいろなことが要因しているかとは思いますが、共通して言えるのは、リーダーの資質の問題だということ。権力を持つ者こそ、謙虚な姿勢が大事なんです。今後は選手の強化の前に、指導者の教育が必要だと思います。私たち日本スポーツ振興センター(JSC)も、選手へのサポートはもちろん、指導者の教育プログラムをつくっていきたいと思っています。

スポーツの発展に不可欠な「ロマンとそろばん」

ロンドンのトゥイッテナム・スタジアムで行われたラグビーワールドカップ2015イングランド  大会予選リーグ、フランス対イタリア戦(2015年9月)

ロンドンのトゥイッテナム・スタジアムで行われたラグビーワールドカップ2015イングランド 大会予選リーグ、フランス対イタリア戦(2015年9月)

―― ラグビーW杯の翌年の2020年には東京オリンピック・パラリンピック、そして2021年には関西でワールドマスターズゲームズと、3年連続でさまざまな国際大会が日本で開催されます。

非常に楽しみですね。そして、こうした国際大会の開催を機に、日本でもスポーツの環境がさらに整備されていく大きなチャンスになるのではないかと思います。

―― 環境整備という点では、例えばイギリスには「トゥイッケナム・スタジアム」がありますし、ニュージーランドには「イーデン・パーク」という代表的なラグビースタジアムがあります。その点、日本はいかがでしょうか。

スタジアムは日本のラグビー界が抱えている課題の一つです。日本にも秩父宮ラグビー場や花園ラグビー場の専用競技場がありますが、本来であれば、サッカーが2002年日韓W杯を開催した時のように、ラグビーも今回のW杯開催を機にスタジアムが増えていくのが理想だったとは思います。

―― スタジアムのほかに、日本ラグビー界が直面している課題とは何でしょうか?

やはり選手の育成が急務だと思います。そのためにも、子どもの頃からラグビーに触れることのできる環境が必要なのですが、小学校、中学校でラグビーをやれるところはほんの一握りしかありません。

―― 初心者の子どもたち向けに考案されたタグラグビーは、校庭や公園でも簡単にできますから、ラグビーの普及にもつながるのではないでしょうか。

おっしゃる通りです。タグラグビーは危険な接触プレーがありませんから、安全にラグビーを体験することができます。このタグラグビーの体験が、本格的にラグビーを始めるきっかけになると期待しています。

*タグラグビーとは、タックルの代わりにボールを持った相手選手の腰に付けたタグを取りに行き、タグを取られた選手は止まった状態でパスをしなければならず、突き飛ばしたり、つかんだりといった接触プレーはすべて反則となるため、安全にラグビーを楽しむことができるように考案されたもの。

ジャカルタで開催された第18回アジア競技大会7人制ラグビー女子で金メダルを獲得(2018年)

ジャカルタで開催された第18回アジア競技大会7人制ラグビー女子で金メダルを獲得(2018年)

―― 今後、日本スポーツの発展のためには、何が必要でしょうか。

私はスポーツに必要なのは「ロマンとそろばん」だと思っています。やはりスポーツには夢は不可欠。夢があるからこそ、魅力があるし、感動してもらえると思うんです。ただ、その夢を追ったり叶えるためには資金が必要なんです。どちらか一つだけでも、うまくいきません。両方そろってこそ、スポーツは発展する。私はそう思っています。

いずれにしても、来年のラグビーW杯は今後の日本ラグビー界にとっては、大きなターニングポイントになることは間違いありません。今年8月にインドネシアで開催されたアジア大会では、7人制ラグビーで男子が銀メダル、女子が金メダルに輝きました。また、パラリンピック競技であるウィルチェアーラグビーも8月の世界選手権(オーストラリア)で世界ランキング1位の地元オーストラリアを破って優勝しました。こうした日本ラグビー界に吹いている風に乗って、来年のラグビーW杯でもぜひ日本の躍進する姿を見たいですね。そして、2020年オリンピック・パラリンピックにつなげていけたらと思います。

ラグビー・大東 和美氏の歴史

  • 大東 和美氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピック・パラリンピックに採用される (1924年のパラリンピック・オリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
  • 1948大東 和美氏、兵庫県に生まれる
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始
1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

  • 1967大東 和美氏、報徳学園高等学校卒業。在学中からラグビーを始める
1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催
日本は全勝で優勝

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任

1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

  • 1971 大東 和美氏、早稲田大学教育学部卒業
     在学中はラグビー部に所属し、フッカーとして活躍
     また、1970年度には主将を務め、大学選手権優勝、新日鐵釜石に勝利して日本選手権制覇を達成
     大東 和美氏、住友金属工業に入社
1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

  • 1972大東 和美氏、日本代表に選出される。テストマッチに計6試合出場
1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976大東 和美氏、早稲田大学ラグビー部監督を務め、大学選手権優勝に導く
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任
1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任
1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

  • 2000大東 和美氏、日本ラグビーフットボール協会評議員に就任
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

  • 2001大東 和美氏、住友金属工業(現・新日鐵住金) 九州支社長に就任
2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2006大東 和美氏、鹿島アントラーズ・エフ・シー代表取締役社長に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2010大東 和美氏、日本プロサッカーリーグ理事長(Jリーグチェアマン)に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

  • 2013 大東 和美氏、報徳学園高校ラグビー部アドバイザーに就任
  • 2014 大東 和美氏、Jリーグメディアプロモーション取締役会長に就任
     大東 和美氏、日本サッカー協会名誉副会長に就任
  • 2015大東 和美氏、日本スポーツ振興センター理事長に就任
2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施