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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

日本のラクビーを支える人びと
第73回
世界が認めた東洋一のレジェンド

坂田 好弘

15歳の時、偶然の出合いで知り、ひと目で魅了されて始めたラグビーで、日本を代表するトッププレーヤーに上り詰めた坂田好弘さん。大学、社会人時代には何度も日本一を経験しました。

日本代表として行ったニュージーランド遠征ではオールブラックス・ジュニア相手に4トライを挙げ、歴史的勝利の立役者となります。その実力はオールブラックス入りを切望されるほどのもので、「世界のサカタ」として名を馳せました。2012年には東洋人として初めてラグビー殿堂入りを果たした坂田さんに、“ラグビー人生”を語っていただきました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/坂田好弘・フォート・キシモト

始まりは合格発表の日の運命的な出合い

京都の自宅のミニラグビー博物館で  思い出の品と

京都の自宅のミニラグビー博物館で思い出の品と

―― 坂田さんはまさに“日本ラグビー界の神さま”的存在なわけですが、ラグビーを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

私がラグビーを始めたのは高校生からなのですが、出合いは本当に偶然でした。中学時代、柔道に夢中になっていた私にとって、ラグビーというスポーツはそれまで見たことも聞いたこともなかったんです。初めて目にしたのは、高校の合格発表の日でした。その日、合否を確認に高校に行ったのですが、体育館に貼り出されたのを見て「よし、合格したぞ」と。その時に、ふとグランドの方に目を向けると、ラグビー部が練習をしていたんです。その時に初めて目にしたラグビーに衝撃を受けました。それまでやっていた狭い道場での柔道とは違って、あんなに広々としたグランドを思い切り走り回るスポーツがあるとは……と。それで、すぐにラグビーをやろうと決めまして、その足でラグビー部の部室に行って「入部したい」と告げました。すぐに「入れ入れ」と大歓迎されまして、もうその場で入部が決まったんです。もしその時ラグビー部が練習をしていなかったら、おそらく柔道を続けていたと思います。そしたらまったく違う人生を歩んでいたでしょうね。そういう意味でも、私がラグビーを始めたのは本当に偶然だったんです。

―― 中学時代は柔道をされていたということですが、成績はいかがだったのでしょうか?

自分で言うのもなんですが、結構強かったんですよ。京都府の大会では個人で準優勝するくらいでした。中学3年の春には初段も取っていまして、当時、京都府内で黒帯を持っている中学生は5人ほどしかいなかったと思います。第一志望として自宅近くにある洛北高校(京都府)を受験したのですが、柔道も大好きでしたから、もし洛北高の受験に落ちていたら、おそらく私学の柔道の強い高校に行っていたと思います。

―― それまで夢中になっていて、しかも黒帯まで取っていた柔道からラグビーへの転向に、周囲の反対やご自身の迷いはなかったのでしょうか?

まったくなかったですね。今でしたらスカウトが来て、どこどこの高校にと勧誘があったとは思うのですが、当時はそういうものがまったくありませんでしたから、自分でもあっさりとラグビーへの転向を決めました。

日本におけるラグビールーツ校  慶応大学(2018年大学選手権)

日本におけるラグビールーツ校 慶応大学(2018年大学選手権)

―― 実は、坂田さんのご出身の京都というのはラグビーが一気に広がっていった地域でもありますよね。公式的な日本ラグビーの始まりは慶應義塾大学ですが、一方で戦後すぐに京都では学校対抗戦が行われ、盛んになっていったという歴史があります。

はい、そうなんです。日本でのラグビーは、1899年に慶大に赴任したイギリス人の英語教師、エドワード・B・クラーク氏が紹介したのが始まりとされています。現在の慶大ラグビー部の前身である慶應義塾體育會(けいおうぎじゅくたいいくかい)蹴球部(しゅうきゅうぶ)が設立されたわけですが、慶大には京都出身の学生もいて、その学生が帰省した際に、京都大学の前身である旧制第三高校の学生にラグビーを教えたんです。それが1910年でした。翌1911年には三高にも正式にラグビーが発足したんです。そして、その三高に続いて、旧制同志社中学校(現・同志社高校)、旧制京都府第一中学校(現・洛北高)、京都市立第一商業学校(現・西京高校)……というふうに、京都府内で瞬く間にラグビーが広がっていったんです。

京都下鴨神社内にある「第一蹴の地」顕彰碑 id=

京都下鴨神社内にある「第一蹴の地」顕彰碑

―― つまり、発祥は慶大にありますが、発展という意味では京都だったということですね。

その通りです。私の自宅のすぐ近くにある下鴨神社には三高の学生が初めてラグビーというスポーツに触れた地としてラグビーの神さまを祀る「雑太社(さわたしゃ)」が昨年再興されまして、すぐ隣には「第一蹴の地」と刻まれた石碑があります。

―― 坂田さんは、まさにラグビーの聖地で育って、そのままラグビーの神さまに導かれていったということになりますね。

そうかもしれませんね。本当にラグビーとの出合いは、偶然の重なりからでしたからね。

入部1週間での初試合初トライ

―― 坂田さんにとって、まず最初に大きな影響を受けたのは、やはり洛北高の池田実監督だったのでしょうか?

はい、そうです。池田先生からラグビーというスポーツを一から教えていただき、3年連続で全国大会や国民体育大会に出場するという幸運にも恵まれました。当時の洛北高は、近畿ではほとんど負けたことがないというほどの強豪でした。

日本代表英仏遠征で  イングランドU23代表と対戦

日本代表英仏遠征でイングランドU23代表と対戦

――  どんな練習をされていたのでしょう。特別な練習などはありましたか?

いやぁ、特別な練習はしていなかったと思いますよ。池田先生から細かいことを教わった記憶もありませんし、しごかれたということもなかったですからね。非常に自由な雰囲気でラグビーをさせてもらっていました。練習中、池田先生はグランド脇の楠の傘の下に立っておられて、じっと見ているんです。それで練習が終わると、ひと言、ふた言おっしゃるだけでした。

―― その少ない言葉の中で、印象的だったことはありましたか?

入部して1週間後、まだルールさえまともにわからない状態の中、「明日、試合だからな」と言われたんです。それで池田先生に「ラグビーって、どうすればいいんですか?」と質問したところ、先生が教えてくれたのは、2つのことでした。「ボールを持ったら走れ」そして「ボールを持っている選手をつかまえろ」と。

――  入部してすぐに試合に出て、動けたりするものでしょうか?

相手は同志社大学の2軍チームだったのですが、その試合で初トライを挙げました。その時から、すでにウイングだったのですが、なにせルールがよくわかっていなかったので、ポジションの意味も理解していませんでした。でも、味方の選手がポンと蹴ったボールが私の目の前に転がってきたので、私は走ってそのボールを受けたんです。「ボールを持ったら走れ」という池田先生の教え通り、私はとにかく一生懸命走りました。そしたら後ろから味方の「押さえろ、押さえろ」という声が聞こえてきて、倒れながらボールをグランドに押さえたんですが、それがトライだったんです。自分では何をしたのか、全然わかっていませんでした(笑)。ただ、17年間の現役生活でおそらく700トライほどしていると思うのですが、今でもあの初トライのことは鮮明に覚えています。

ニュージーランド・バーバリアンズに選出され、ニュージーランド・マオリ代表と対戦(1969年)

ニュージーランド・バーバリアンズに選出され、ニュージーランド・マオリ代表と対戦(1969年)

―― 最初からウイングに抜擢されたということは、もともと足が速かったんですね。

はい、走るのは子どもの頃から得意でした。中学時代も柔道部でしたが、陸上の大会に駆り出されて、短距離や走高跳に出たりしていたんです。

―― 近畿では負けなしだったわけですが、全国ではどのくらいまで勝ち進んだのでしょうか?

だいたいベスト8くらいまではいつも勝ち進んでいましたね。

―― それほど高いレベルでやっていたら、やはり自然と大学でもラグビーを続けようと思ったわけですね?

そうですね。ただ今のように、どこの高校を出て、どこの大学に入るみたいなものはありませんでしたから、まぁ、成り行きに任せてというところが大きかったかと思います。高校3年の時に進学を決める際、たまたま同志社大からスポーツ推薦でのお声がけをいただきまして、自宅のすぐ近くでしたから、「いいかな」と。それで受験したのですが、高校の先生方は「無理だろう」と思っていたみたいで、「受かりました」と言ったら「本当か!?」と何度も聞かれました(笑)。

坂田好弘氏(インタビュー風景)

坂田好弘氏(インタビュー風景)

「イン・アンド・アウト」習得のカギとなった恩師の訓え

―― 当時の大学ラグビー界は、早稲田大学、慶大、明治大学の関東勢に、関西でダントツの同志社大の4大学がしのぎを削るというかたちでした。それこそ同志社大は関西で唯一無二の強豪校でした。当時は岡仁詩監督でしたが、どんな指導でしたか?

高校時代の池田先生とはまた違って、岡先生は細かい組み立てを指導する理論派の方でした。どちらかというと高校時代は本能でやっていましたが、大学ではきちんとした戦略を立てたラグビーでした。

―― 当時の「同志社ラグビー」というのは、どういうスタイルだったのでしょうか?

選手一人一人が考えながらラグビーをしていたということと、戦術・戦略的には世界のラグビーについての研究が進んでいました。岡先生の恩師は星名秦先生という方で、京都大学ラグビー部出身で1928年に京大が全国制覇した時のキャプテンでした。岡先生は、星名先生が同志社大の監督だった時の教え子だったんです。その星名先生の理論的なラグビーを岡先生が継承して、私たちを指導してくださったのですが、当時から世界のラグビーの研究は非常に進んでいました。イングランドやオーストラリア、南アフリカといったラグビーの強豪チームの理論を持ち込み、国内では進んだラグビーをしていたと思います。

 カンタベリー大対全同志社大の試合後、カンタベリー大の選手に肩車される

カンタベリー大対全同志社大の試合後、 カンタベリー大の選手に肩車される

―― パスワークでスピーディに展開する「横の早稲田」、フォワードを重視して突進していく「縦の明治」と言われましたが、同志社大はどのように表現できましたでしょうか?

ひと言で言うと、「自由奔放」ですね。ベースには理論的な戦術がありましたが、最終的には自由なスタイルでのラグビーだったと思います。なかでもフォワードの強さは圧倒的でした。スクラムはどこにも負けませんでしたし、よくスクラムトライを決めていました。

―― 練習は厳しかったと思いますが、思い出に残っていることはありますか?

今でも覚えているのは、1年の時の夏合宿です。長野県の菅平高原で行われていたのですが、チーム内での紅白戦をやるんですけども、その練習試合で私が4年生のキャプテンをハンドオフ(相手をつき離す)をして独走してトライをしたんですね。自分では「これはナイストライだ!」と思って褒められるかと思っていたら、岡先生にこっぴどく叱られたんです。「坂田、ウイングというのは真っすぐ走るもんや!逃げながら走ってどないするんや!」と。でも、私としてはハンドオフするのも、かわすのも技の一つだと思っていましたので「何を言われているんだろうなぁ」と理解できませんでした。

―― ウイングというのは「真っすぐ走る」というよりも、相手をかわしながら「走り抜ける」という気がするのですが……。

そうですよね。私もそう思っていました。それで、何年後かに改めて岡先生に真意を聞いたことがあるのですが、その時は「そんなこと言ったかな?」と忘れられていました(笑)。でも、後に「あれは大きなヒントになったな」と思いました。なぜかというと、自分よりも大きな体格の海外勢相手には、そんなまともにハンドオフしたり、かわすなんて技術は通用しなかったでしょうからね。だから、大学の時に「真っすぐ走る」ということを念頭に置いたプレーをしたことは大きかったと思います。もちろん、単に真っすぐ走れば、そのまま相手に正面衝突してしまいますので、そうではなくて、相手のちょっと内側に入って、相手がそれに反応してバランスを崩した隙に真っすぐに走るんですね。そうすると、当たり負けしないんです。「イン・アンド・アウト」という技術で、練習で何度も失敗しながら3年くらいかけて完成させたのですが、これは岡先生の言葉を受けて「真っすぐに走るにはどうすればいいかな」と考えたからこそ身に付けられたものだったと思います。この技術があったのとないのとでは、私のラグビ―人生は大きく変わっていたと思いますね。

決勝での戦いに備えられた夏合宿

近鉄と早稲田で争われた日本選手権で優勝、引退に花を添えた

近鉄と早稲田で争われた日本選手権で優勝、 引退に花を添えた

―― 大学1年生、3年生の時には、日本選手権(1年時は「NHK杯争奪ラグビー大会」。1963年に「日本選手権」となる)社会人チームの近畿日本鉄道(近鉄)を破って2度も日本一になりました。今では、大学と社会人とでは力の差が大きく、大学が勝つことは考えられなくなってしまいました。当時と何が違ってきているのでしょうか?

当時の社会人チームというのは、まだ選手層が薄かったと思うんです。しかしその後、大学を卒業した優秀な選手がどんどん社会人チームに上がっていくことで、大学チームが勝てなくなっていったのではないでしょうか。

―― ちょうど坂田さんが大学を卒業する頃に、社会人チームが強くなっていったということなんでしょうね。

そうだと思います。私が社会人になってからは、大学には負けなくなっていきましたね。

―― 坂田さんは、大学卒業後は近鉄に入社されて、そこでも活躍されました。近鉄への入社したのはどういうきっかけだったのでしょうか?

実は大学で2度も日本一になっていましたから、「もうラグビーはいいや」と思っていたんです。自由とは言っても、当時の同志社大には日本一にならなければいけないというプレッシャーが常にありましたから、その中で4年間頑張ったわけですし、社会人になってまでラグビーはいいなと。それで、どこかで子どもたちにのんびりとラグビーを教えられたらなくらいに思っていたんです。そしたら、東京の企業から声をかけてもらいまして、簡単に「行きます」と返事をしたところ、その後で大学のOBから近鉄への話をいただいたんです。「もう東京の企業に『行きます』と返事をしてしまいました」と正直に言いましたら「それは私がなんとかするから」と。それで近鉄に行くことになったのですが、当時の近鉄は強かったですから、入るからには覚悟を決めてラグビーをやろうと思いました。ところが入社してみたら、ラグビーで採用されたかどうかなんてお構いなしに、ちゃんと仕事をさせられるわけです。ほかの社員と同じように、1年間の研修中には経理から鉄道の仕事まですべての部署をまわりました。最初は駅舎の掃除から始まって、それから車掌というふうになっていき、最後は運転手までやりました。それから正式に配属先が決まり、私は駅務につきました。

東大阪市にあるラグビーの聖地、花園ラグビー場

東大阪市にあるラグビーの聖地、花園ラグビー場

―― そうした通常勤務をしながらラグビーの練習もされていたんですか?

はい、そうです。だから大変でしたよ。鉄道会社は宿直の日がありますから、その日は練習することができないんです。ですから、2日に1回くらいしか練習することができませんでした。しかも、その練習がまた厳しくて、花園ラグビー場(大阪府)から生駒の山を登らされたりしました。本当に「もう、なんやねん」と思いましたよ。これだけ仕事をやらされて、山まで登らされて。「こんなチームが日本一になるはずがない」と。そしたら入社2年目、3年目に全国社会人大会で連覇したんです。

―― 合宿も、相当厳しかったのではないですか?

夏と冬に合宿をするのですが、夏の合宿では花園ラグビー場のスタンドの下で寝るんです。西日があたるところに大広間がありまして、もうサウナにいるようなものでした。そこで大汗をかきながら寝るんです。それも昼間は通常通り仕事をしていますからね。疲れた体に鞭を打って練習をして、それでそんな蒸し風呂状態のところで寝させられて……。暑くて寝られないからと布団に水をかけていた後輩もいました。

坂田氏の思い出が詰まった京都の自宅のミニラグビー博物館

坂田氏の思い出が詰まった京都の自宅のミニラグビー博物館

―― 当時は、社会人チームはどこも同じような厳しさがあったのでしょうか?

今と比べたら、そうだったと思いますね。ただ、お盆休みなんかに合宿をするとなると、だいたい涼しい避暑地に行ったりしてやっていました。ところが、近鉄だけはわざわざ暑いところでやるわけです。入社した1年目の時は「この会社はなんなんだ?涼しいところで効率的に練習した方が、絶対に力がつくのに」と思っていました。でも、全国社会人大会を迎えた時にその練習の意図がようやくわかったんです。当時は1月2、4、6、8日と1日おきに試合が行われていて、もう最後の決勝の時には疲労困憊で何も考えられなくなるんです。試合前にトイレに行くことも人から確認されないと忘れたりしてね。それくらい頭が朦朧とする中で試合をしなければいけなかった。だから頭で考えてプレーなんかできないんです。もう本能で動くしかない。その時に理屈の通らない厳しい夏合宿の成果が出るんです。頭が働かなくても、体が動くようになっていたんですね。その時に初めて「そうか、この時のためにあの合宿があったのか」と。

―― 近鉄は最初から全国大会の決勝のことを考えていたというわけですね。

当時の近鉄はそうでしたね。すべては決勝のことを考えての準備だったんです。どれだけくたくたに体が疲れた状態でも、無意識でプレーできるようにしていたんです。

ニュージーランドを震撼させた大番狂わせの快挙

大西理論を導入し早大監督、日本代表監督を務めた大西鐵之氏

大西理論を導入し早大監督、日本代表監督を務めた大西鐵之祐氏

―― 坂田さんは、大学時代にはすでに日本代表にも選ばれていました。

初めて代表に呼ばれたのは、19歳、大学2年の時でした。フランスのチームとの試合だったのですが、その時は先輩に明大出身の宮井国夫さんという素晴らしいウイングがいましたので、試合には出場できませんでした。

―― 社会人時代の1968年には、名将の大西鐵之祐監督のもと、オールブラックス・ジュニアに23対19で勝利するという快挙を成し遂げられました。

初めてニュージーランドのラグビーに触れたのは、私が大学4年の時でした。現役学生と社会人のOBの混合で「オール同志社」として、来日したカンタベリー大学と交流試合をしたんです。その時に結構いい試合をしまして、それでカンタベリー大が翌年に、今度は私たちをニュージーランドに招待してくれたんです。それでカンタベリー大やリンカーン大学などと対戦しました。その時に感じたのは、「ラグビー選手って、試合が終われば、こんなにフレンドリーになれるんだな」ということでした。アフターマッチファンクション*1 があったのですが、ほとんど言葉も通じないのに、それでも「こんなに世界にはラグビー仲間がたくさんいるんだ」と思えたんです。その2年後に、今度は日本代表としてニュージーランド遠征に行きまして、オールブラックス・ジュニア*2 と対戦しました。

*1 アフターマッチファンクションとは、試合終了後に両チーム選手・スタッフ・レフリー・ 協会関係者が一同に集い、軽食や飲物を摂りながら交流を深めるイベント。そこでは敵・味方なく、お互いの健闘をたたえ合う。
*2 オールブラックス・ジュニアとは、「オールブラックス」とは別に、23歳以下の選手で構成されたニュージーランド代表。

オールブラックスが試合前に披露するマオリ族の民族舞踊「ハカ」

オールブラックスが試合前に披露する マオリ族の民族舞踊「ハカ」

―― 当時は、海外のラグビーについて日本では知られていたのでしょうか?

いやぁ、おそらくほとんど何も情報はなかったと思いますよ。私が1969年に「ニュージーランドに留学する」と言ったら、近鉄のご年配の先輩は「ニューギニアか?」と言っていたくらいでしたから、ニュージーランドについては何も知識がなかったと思います。ですから、私たちもオールブラックス・ジュニアがどれだけ強くて、どれだけ価値ある対戦なのか、ほとんどわかっていませんでした。

―― 実際、オールブラックス・ジュニアとの試合は、どんなものだったのでしょうか?

これは、日本の作戦勝ちでしたね。フォワード勝負では絶対的に不利ですから、スクラムを組んだ瞬間にボールを入れるんですよ。それですぐにフッカーがかきだしたら、ダイレクトにパスを出すんです。その時、相手はまだ一生懸命スクラムを押しているわけです。それでフルバックがスーッとラインに入ってきて、裏に抜けてトライを決めると。日本のメンバーの平均身長は172センチ、平均体重は72.5キロでした。一方、相手は平均で185センチに90キロという感じでしたから、まさに大人と子どものようなものでしたよ。そんな小さな日本人のチームが大きなオールブラックス・ジュニアに勝ったわけですから、相手も相当驚いたと思います。

―― その作戦を考えられたのは、大西監督だったんですね?

はい、そうです。大西さんは、ずっとニュージーランドの強いところ、弱いところを研究していて、それがオールブラックス・ジュニアの試合で花開いたという感じでしたね。実はこの後、何度も日本ラグビー協会から当時のビデオが欲しいと頼んだのですが、結局手元には届きませんでした。

坂田氏が4トライを決めたニュージーランド遠征時のオールブラックス・ジュニア戦

坂田氏が4トライを決めたニュージーランド遠征時のオールブラックス・ジュニア戦(1968年)

―― 撮影されていなかったのでしょうか?

それは絶対にありません。私たちは試合後にホテルでビデオを観ていますし、同じ時期のフランスとのテストマッチのビデオもしっかり残っていますから、アジアとの珍しい一戦を残していないわけがないんです。しかし、ニュージーランドとしてはまさかアジアの日本に負けるとは思っていなかったと思うんですね。ですから、相当な屈辱だったはずです。試合後のアフターマッチファンクションは異様な雰囲気でした。ふつうは海外の選手たちはみんなお酒を飲んで陽気に騒ぐのに、その時だけはシーンと静まり返っていたんです。ですから、ビデオを渡してくれなかったのも、そんな屈辱的な試合はお蔵入りしたかったんじゃないかなと。

―― 日本にとっては歴史的快挙だったわけですが、その試合で坂田さんは4トライを挙げました。

当時はオールブラックス・ジュニア相手に4トライを挙げたことが、どれだけすごいことかは全然わかっていませんでした。相手は「とんでもない奴だ」と思っていたかもしれませんが、私自身は単にいつも通りトライしただけのことでしたから。

オールブラックス入りを切望された実力

単身でニュージーランドに渡り、カンタベリー州代表としてプレー

単身でニュージーランドに渡り、カンタベリー州代表としてプレー

―― その試合の活躍がきっかけで、カンタベリー大から声がかかったのでしょうか?

いえいえ、希望したのは私の方でした。ニュージーランドのラグビーと触れ合う中で、「ここでやってみたいな」と思ったんです。楽しいというのもありましたし、自分の技がどこまで通用するか試してみたくなったんですね。オールブラックス・ジュニアとの試合後には、オークランド大学やヴィクトリア大学との交流試合がありまして、その時に当時の団長だった金野滋さんに「ニュージーランドでラグビーをしたいので、一度、話をしてもらえないでしょうか?」と頼み込んだんです。そしたら、「これは代表の遠征だから、個人のことはできない」と。その代わり金野さんが代表チームについてくれていた世話役の人に話をしてくれまして、その人がちょうどヴィクトリア大のOBで、早速面接に連れて行ってくれたんです。それで遠征を終えて帰国した後に、私がニュージーランドに留学に来る、と現地の新聞に載りまして、それを日本人の駐在員が日本に送ってきてくれました。それがサンケイスポーツに大きく出たわけです。

―― 近鉄は承諾したんですか?

最初は、怒られました。「何も聞いてないぞ!勝手なことをするんじゃない!」と。当然ですよね。ただ、運よく南半球だったので、シーズンの時期が重ならないことが幸いしました。日本のシーズンが終わってからニュージーランドに行けばいいということになって、「無給休暇」というかたちで許可を得ました。

ニュージーランド大学選抜に選ばれた際に着用したユニフォーム

ニュージーランド大学選抜に選ばれた際に着用したユニフォーム

―― ということは、自費留学だったわけですよね。費用を工面するのは大変だったのではないでしょうか?

はい、とても苦労しました。親戚を駆けまわって借金をして行ったんです。私が入ったのは、カンタベリー大のラグビーチーム。向こうは大学生でなくてもOBや私のような部外者でも入れるオープンチームなんです。当時、カンタベリー大のクラブには16軍まであって、1軍は他のクラブの1軍と試合をし、2軍は他のクラブの2軍と試合をするといったように、それぞれのレベルと目的に見合ったチームで試合をすることができました。試合が終わってお酒を飲む楽しみなどはどのチームにもありました。

日本のように1チームに100人も置いて、ほとんどの選手が試合に出られないで終わるなんことはないんですね。試合のために練習をするというのが基本的な考え方。試合に出る楽しみもないのに練習だけするなんていうことは考えられないんです。それは、とてもいいなぁと思いました。だから私は大阪体育大学の監督時代には、関西大学リーグに2軍リーグ、3軍リーグまで作って、それぞれ試合を組むようなシステムにしました。

ニュージーランドで「1969年度年間最優秀5選手」に選出される

ニュージーランドで「1969年度年間最優秀5選手」に選出される

―― そのニュージーランド留学時代には、ニュージーランド大学選抜や、世界各国から優秀な選手を集めて編成されるバーバリアンズにも選ばれました。翌年にはニュージーランド代表として南アフリカ遠征メンバー候補にも挙げられ、オールブラックス入り寸前までいきました。

私としては、特別に活躍したという実感はなかったんです。でも、現地の人たちの評価は、私が思っていたよりも高かったかもしれませんね。

27試合に出場して30トライを決めたのですが、それはカンタベリー州の中では戦後の新記録でした。そんなことを小さな日本人がやってのけたわけですから、衝撃的だったと思います。

それで1年の留学を終えて帰国するという時に、もう1年残って、ニュージーランド代表として南アフリカ遠征に行ってほしいと言われました。今だったらどんなことをしてでも残っていたと思いますが、当時はそれがどれほどのすごいことなのかを理解していませんでした。それに、日本語は通じない、日本食は食べれない、日本人が一人もいない環境から早く抜け出して、日本に帰りたいという気持ちでいっぱいでした。

就任5年目に訪れた指導者としての転機

―― 1975年1月の日本選手権を最後に現役を引退され、近鉄も退社されました。その後、指導者となるわけですが、やはりそれまで指導を受けた方々の影響はあったのでしょうか?

高校、大学、社会人、日本代表と多くの方々の指導を受けてきたわけですが、実際自分が指導者になった時には、誰の影響も受けることなく、「坂田好弘」独自の考えで指導しました。それも、5年、10年、15年と年数を重ねるにつれて、その指導方法は変わっていきました。私は高校から数えて17年間現役生活を送った後に引退して、2年間の空白の時間を経て大阪体育大学ラグビー部の監督に就任したのですが、その時にまず最初に頭にあったのは、「関西で優勝すること」でした。当時、まだ学生たちは本気で関西一のチームになるなんて思ってもいなかったでしょうけれど、自分が経験してきた同志社大や近鉄での厳しい練習をかけあわせたメニューをこなせば、実現すると信じていました。ですから練習の厳しさだけはどこよりも負けていませんでした。ところが、実際の試合ではなかなか勝てなかったんです。それでも自分もやってきたんだから、厳しい練習さえすれば絶対に勝てるようになると信じていたんです。でも、選手は疲れるばかりで、試合ではまったく勝てませんでした。

大阪体育大学監督としてのラストゲーム。大学選手権の早稲田大戦。両チームから花道で送られる。

大阪体育大学監督としてのラストゲーム。 大学選手権の早稲田大戦。 両チームから花道で送られる。

―― あの時代の坂田さんだったからできたけれど、誰でもできることではなかったということですね。

そうなんです。でも、それが最初はわかりませんでした。だから「まだやれる、まだやれる」と。練習が終わって、選手が少しでも元気そうにしていると、不満に思えて「まだまだ練習量が足りないんだな」と。ですから、試合に負けると、原因は練習量が不足しているか、もしくは選手が悪いとしか考えられませんでした。あの時は、「もっと練習するぞ」と押しつけでしかありませんでしたね。今ではわかるのですが、練習して逆に下手になる練習はいくらでもあるんです。

―― 「下手になる練習」とはどういうことでしょうか?

練習というのは、いい形を体に覚えさせるからこそ成果が出るんです。でも、それを形はいい加減で、ただ長時間やればいいという練習では、どんどん下手になります。体が元気な時の形と、くたくたの時の形では、全然違いますからね。それをくたくたの時の悪い形のまま繰り返し練習すれば、その形で体が覚えてしまうわけです。でも、そのことに気づいたのは、相当後になってからのことでした。

大阪体育大学監督としてのラストゲーム。大学選手権の早稲田大戦。スタンドから戦況を見守る。

大阪体育大学監督としてのラストゲーム。大学選手権の早稲田大戦。スタンドから戦況を見守る。

―― それからは、指導方法は変わりましたか?

就任5年目の時、選手が試合中に相手と衝突して血を流してグランドに倒れたんです。その時、私はラグビーでは流血なんてよくあることだからと、「放り出せ!」と言いました。すると、隣に座っていたのが、私を学生時代から見てくれていた新聞記者だったのですが、その記者が「坂田!今何て言った?放り出せ、はないだろう!」とものすごい剣幕で怒りだしたんです。その時、私は「何を言ってるんだ?」としか思いませんでした。当時は当たり前のことでしたからね。でも、試合が終わってから少し考えた時に「そうだよな。試合をやっている選手は痛い目に遭って苦しんでいるのに、『放り出せ』なんて言う監督ってどうなんだろう?」と思ったんです。逆の立場だったらどうかなと考えた時に、自分が選手で倒れて「放り出せ!」と言われたら、そんな監督のことは絶対に信用しないなと。その時に初めて「そうだ、やっているのも痛い目に遭っているのも選手なんだ」と気づきました。それを機に、考えがガラリと変わりました。

―― それからは、どのような指導をされるようになったのでしょうか?

選手に練習メニューを考えさせるようにしたんです。そしたらメニュー自体は、私がやらせていたものと、ほとんど変わりませんでした。要はやらされているものなのか、自分たちで考えて納得したものかどうか、ということだったんです。でも、その違いは非常に大きかった。エネルギーの創出量がまるで違ったんです。選手たちから発する言葉も変わっていきました。同じ厳しいメニューのはずなのに、それまで私が「やれ」だったのが、自分たちから「やろう!頑張ろう!」と言い始めたんです。

―― 一歩引いて、視野を広げて見るようになったということでしょうか?

はい、おっしゃる通りです。大体大が強くなっていったのは、それからでした。結局、36年間、指導者をしましたけれども、最終的に行き着いたのは「選手がいてこその自分だったな」と。選手たちから学ぶことはたくさんありました。指導者が上とかではないんですよね。最後は人間同士の付き合いなわけです。

最重要課題は子どものやる気に応える環境づくり

ラグビーを楽しむ子どもたち

ラグビーを楽しむ子どもたち

―― さて、来年はアジアでは初開催となるラグビーW杯があります。そこでラグビー文化を日本に根付かせていくことが大切になると思いますが、いかがでしょうか。

正直申し上げますと、今の段階では、非常に難しいなと思ってしまいます。もちろん、予定通りに大会が開催されて、試合もスムーズに行われることでしょう。しかし、それで果たしてラグビー文化が根付くかというと、どうかなと。ラグビーの本場と言われる、イングランド、ニュージーランド、オーストラリアというのは、生活の中の一部としてラグビーが溶け込んでいるんですよね。ところが日本では、例えばW杯を観た子どもが「ラグビーをしたい」と思った時に、すぐに始められる環境があるかというとないわけです。

私の自宅の目の前にも、小学校の校庭や公園がありますが、そこに芝生がしかれていて、自由に裸足で駆け回れたり、転げ回ったりできるようになっていれば、ラグビーに限らず、子どもたちがスポーツを始める土壌になると思うのですが、実際はそうではありません。それと拠点となる地域に密着したクラブも少ないですよね。まずはそういう部分での環境を整備していかないと、本当の意味でのスポーツの楽しさ、体を動かす楽しさを、子どもたちに伝えることはできないと思います。

ラグビーワールドカップ2019は9月20日から11月2日の間、日本各地で開催される

ラグビーワールドカップ2019は9月20日から11月2日の間、日本各地で開催される

―― 今、日本のスポーツ界ではさまざまな問題が噴出しています。特に次世代のことを考えると、課題は山積しているわけですが、ラグビー界はいかがでしょうか?

私が高校でラグビーを始めて約60年が経ちますが、当時ラグビー競技場と呼べたのは東京の秩父宮ラグビー場、大阪の花園ラグビー場、名古屋の瑞穂ラグビー場の3カ所でした。それが60年経った今、どれだけ増えたかというと、ほとんど変わっていません。そういう中でW杯が開催されるわけです。サッカーは2002年にW杯を開催したのを機に競技場が増えて、その後はJリーグで使用されています。

一方、来年のラグビーW杯では12会場中9会場が2002年の時に使用したサッカー競技場なわけです。そして、W杯が終われば、再びサッカー競技場に戻るわけですよね。本来は逆にならなければいけなかったと思います。9会場は新設したラグビー競技場で、残り3会場はサッカー競技場を借りましたと。そうすれば、9会場はW杯後もラグビーに使われるわけです。とにかくやる環境がなければ、スポーツは発展しません。

―― そんな状況の中で、W杯が開催されるわけですが、W杯が終わった後のビジョンをどう描くかということが重要ではないでしょうか。

私もそう思います。今回、約90の自治体が参加国の事前キャンプ地に手を挙げてくれました。ということは、それだけラグビーができる環境があります、ということですよね。そのうち59の自治体が内定したと。落選した30の自治体は何か不備があったのかもしれませんが、それを例えば日本ラグビー協会が支援の手を差し伸べて、ラグビーができる環境の確保をすれば、それだけで違うのではないかと思うんです。そうして、W杯が終わった時に「ラグビーをやりたい!」という子どもが出てきた時に、それぞれの地域のラグビー場を紹介できるようにすれば、広がっていきますよね。そういう子どもたちこそが、W杯開催の最大の財産になると思います。

IRB(国際ラグビーボード)の「ラグビー殿堂」に日本人初、世界で51人目に選出される

IRB(国際ラグビーボード)の「ラグビー殿堂」に 日本人初、世界で51人目に選出される

―― 坂田さんは2012年に東洋人として初めて国際ラグビーボード(IRB)のラグビー殿堂いり*を果たされています。そのような立場も含め、坂田さんにとって“ラグビー”とはどのような存在でしょうか、お聞かせ下さい。

ラグビーから数え切れない多くのことを学びました。いわば私にとって人生の師匠のような存在です。ですから、今でもラグビーから離れることはできないんです。

*ラグビー殿堂受賞理由:国際ラグビーボードは、1960年代の世界で最も優れた選手の一人で、おそらく今日にいたるまで日本で最高の選手である坂田好弘氏のラグビー殿堂(IRB Hall of Fame) 入りを決めた。坂田氏は世界で51人目日本人初の殿堂入りとなる。平成24年6月5日

ラグビー・坂田 好弘氏の歴史

  • 坂田 好弘氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1896
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助氏によって慶應義塾大学でラグビーの指導が始められる
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピック・パラリンピックに採用される (1924年のパラリンピック・オリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1919
大正4
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1942坂田 好弘氏、大阪府に生まれる
  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮雍仁さま、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビー蹴球協会の3代目会長に就任
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始
1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

  • 1963坂田 好弘氏、全日本のメンバーに選出される
1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

  • 1965坂田 好弘氏、近鉄日本鉄道に入社
1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

  • 1968坂田 好弘氏、日本代表としてニュージーランド遠征に選出される。
    オールブラック・ジュニアに4トライを挙げて歴史的勝利に貢献し、「Flying Wing Sakata」として名をとどろかせ、ニュージーランドの「プレイヤー・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれる
1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催
日本は全勝で優勝

  • 1968坂田 好弘氏、ニュージーランドのカンタベリー大学に留学し、カンタベリー州の代表選手に選出される
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任

  • 1970坂田 好弘氏、ニュージーランド代表南アフリカ遠征メンバーの候補となる
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征
1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任
1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
1975
昭和50
  • 1975坂田 好弘氏、現役を引退
  • 1977坂田 好弘氏、大阪体育大学ラグビー部監督に就任
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす
1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任
1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任
1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任
2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕
2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年開催の第9回ラグビーワールドカップの日本招致成功
2010
平成22
ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
  • 2012坂田 好弘氏、関西ラグビーフットボール協会会長に就任
     坂田 好弘氏、東洋人初となるラグビー殿堂入り
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行
2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

  • 2012坂田 好弘氏、日本ラグビーフットボール協会副会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施