このテキストを手にとるのは、まずスポーツ大好きの学生や教師なのだろう。あるいはスポーツライターやテレビの解説者たちだろうか。するにしろ、みるにしろ、自分が興味をいだき面白がっている身体運動をふりかえり、ふと「スポーツとは何だろう」という思いがよぎった時、この本のページをめくればいい。
パラパラとめくればこの本が、スポーツ学への入門書であることがわかる。スポーツの森の奥は深い。しかし、本書をスタートラインとすることで、私たちは誰もが「学問としてのスポーツの森」へ分け入っていくことができるのだ。ズンズンと森の奥へと案内してくれる案内役は83人の執筆者。つまり森への入り口は83門、用意されている。
大きな森は、大きな木で構成されている。17本ある大きな木の幹には、それぞれ枝ぶりのいい枝が4、5本配置され、その枝にはさらに小枝、珍しい葉っぱ、新しい芽が芽吹いている様子がよくわかる。さあ、ここからが学びのスタートだ。
執筆者は、社会学、人類学、政治学、教育学などなど、それぞれの専門にしたがって「スポーツを文化」としてとらえた論述を展開している。しかし、与えられているスペースはわずか見開き2ページ。よく工夫され、コンパクトで、本質的であることが、腕のみせどころ。スポーツの多面性を提示するために考え抜かれた方法なのであろう。実によくできた教科書だ。
それにしてもスポーツがなぜ文化なのか?
なぜ「文化論」としてのとらえ方が必要なのか?
小欄は、菊 幸一 先生(篇者)の「スポーツ文化論の視点」を読んで、初めて理解できた。胸にストンと落ちた感じだ。そして恥じた。そうか、スポーツもまたその社会とその時代を色濃く反映する人間の営みとしてとらえるべきであったか、との思いである。だから学として学問としてとらえる必要があったのである。
よい羊飼いは、羊の群れを追い立てるのではなく、群れの中に自分が入り込み、群れを牧草や水のある方向へと導いていくのだという。
多様で多元的な社会にあればこそ、スポーツもまた多様で多元的な考察が必要とされている。本書の編者は、その思いで本書を編集されたのだろう。その意味で序論だけでもスポーツ分野外の人々にも、一読をすすめたい。